交通ルール啓発ブログ

 阿らない人・有吉佐和子が見通したホンダのエンジン開発技術

本日のブログは全くの散文である。ましてや、キーセンテンスは30代以上50代以下の人にしか共感できない部分があるかと思う。一応補足は入れておいたが了解頂きたい。


冒頭は先週の金曜日の日常風景から始まる。
取引先との打ち合わせを終えて社に戻る途中、昼食を取ろうと思い中華料理屋に寄った。
部下と了解事項の確認を一通り済ませてからは、しばし両者とも無言になった。店主と従業員が中国人のようで、飛び交う中国語に混じって設置しているテレビからタモリの声がするのに気付き、注文したチャーハンを口に運びつつ時折「笑っていいとも!」の映像に視線を移していた。
「笑っていいとも!」の一コーナー「テレフォンショッキング」は、著名人の意外な交友関係を茶の間に紹介する趣旨でスタートしたとかつて聞いたことがある。出演依頼は一切「やらせなし」。当時、ライバル局日本テレビアナウンサーであった小林完吾と徳光和夫が出演したことや、間違い電話が元で著名人ではない素人が出演したこともある。更に別コーナーであるが、出演予定のないビートたけしが突然乱入して流行作家であった田中康夫の首を半ば本気(のように見えたが・・・?)で絞めたりするなど、生放送ならではの予想もつかないハラハラ感が魅力だった筈の「笑っていいとも!」であったが、いつの頃からかゲストのプロモーションの場になってしまった。その日も案の定、テレフォンショッキングに出演する柴咲コウが「ドラえもん」の主題歌を唄っているとの事で、差し障りのない「ドラえもん」の話題から触れていく。
タモリの巧妙な話術で柴崎の意外な一面も引き出してはいるのだが、事前に質問事項を決めていたような予定調和のとれたトークが淡々と進み、更に月曜のゲストに同じ事務所所属ながら面識がないという竹内結子(こちらも映画宣伝が主のようだが・・・)との「ぎこちない会話」を始めたところで、食事を取り終えた我々は店を後にした。改めて見ると往年の番組の持つパワーを知る世代としては、さして気に留めるほどの番組でなくなったように思える。
(上記文中参考:http://www007.upp.so-net.ne.jp/iitomo/2009/20090306.htm


今から25年前(正確には1984年6月22日)の同コーナーでのO.A中に「ある珍事」が起こったことを覚えている人はいらっしゃるであろうか。タモリが「世界に広げよう友達の輪」という合言葉を観客と斉唱し、ゲストが直接電話をかける際に使用する遮蔽板(テレフォンを隠すところから「テレ隠し」)が登場、タモリが次のゲストへの伝言と称して"卑猥なマーク"を書いていた頃の出来事だ。
着用してきた池田満寿夫デザインの着物を紹介したいと言い出し、何故「笑っていいとも!」で政治や国際問題を論じないのかをタモリに詰問し、タモリが作詞した六大学野球での早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」を収めたラジカセをスタジオ内に持ち込んで強引に曲を流して観客に唄わせようとするなどしてコーナーの時間が大幅に伸び、挙げ句になかなか出演できないことに業を煮やした当時レギュラーの明石家さんまから「もー、帰ってよー!」との捨て台詞を吐き捨てられたゲストがいた。
女性の視点から見た女性像の仔細な筆致で定評のあった小説家・有吉佐和子。急性心不全により逝去する2ヶ月前の、最後のテレビ出演となった一幕である。

有吉は、先の番組内で幼少から寝つきが悪く、作家になってから寝床で作品の構想を練ると興奮して眠れなくなることから、睡眠導入剤を処方し服用していることを自ら告白していた。彼女の死後に「精神的不安定状態による奇行」などとセンセーショナルに取り上げたマスコミもあったが、動画サイトに残された当時の映像を見る限りではそのような様子は見られない。有吉以前に出演した黒柳徹子が予定時間をオーバーして喋りすぎてしまいレギュラーコーナーが放送できなかったことを、彼女は予め番組のエピソードを調べたか実際に見ていたかで知っていて、前日放送の出演依頼の際にそのことを話していたことから、彼女なりに"番組ジャック"することを計算してやったことの結果が反響を読んだようだ。彼女の取材と資料収集は、極めて綿密かつ詳細であったと「知ってるつもり?!」という番組で取り上げられていた記憶がある

彼女の代表作のひとつに「複合汚染」が挙げられる。その中にホンダのCVCCエンジン開発に関わるエピソードが載っていたので、読み返してみた。
CVCCエンジンの誕生は、1970年12月にアメリカ連邦議会上院議員エドムンド・マスキーが提出した「連邦大気浄化法改正案」が成立したことに端を発する。その内容は1975年以降に生産される自動車から排出される炭素酸化物を1970-1971年規制基準の10分の1に、窒素酸化物を1970-1971年規制基準の10分の1にそれぞれ削減することに定めており、実現不可能とも荒唐無稽ともいわれた(後に、改正同法は提出者の名を取って「マスキー法」と呼ばれることになる)。改正同法施行に係わる公聴会において、ビックスリーは揃って法施行の1年延期を求めるなど、自動車業界が騒然としていた頃に法規制の内容を知ってほくそ笑んだ経営者がいた。本田技研工業社長の本田宗一郎である。以下、「複合汚染」の該当箇所を引用する。

彼は翌日、若い技術者を集めてこのような演説をしたという。
「自動車業界にあっては後発メーカーとして、また中小企業として進んできたわが社であったが、このマスキー法を契機として今日からわが社は日本の大手業界とまったく同一ラインに立ったのだ。諸君の奮起を求める」と。


当時のホンダはF1で優勝を飾るなど技術面で目を見張るものがあったが、アメリカでは「リトルホンダ」のヒットにより二輪メーカーとして知られていたものの、四輪メーカーとしては軽自動車ホンダN360のボアアップ版「N600」が発売し始めた時期であり、アメリカでの知名度は低かったといわれている。
当初、ホンダは「触媒方式」による炭素酸化物・窒素酸化物の軽減に努めようとしたが、触媒の白金が外にばら蒔かれる問題が解決できず断念する。その代替案として浮上したのが、エミッション特性から失火範囲を割り出して、副燃焼室で少量のリッチな(比較的ガソリン混合比の高い)混合気に一旦着火させ、そこから主燃焼室の希薄混合気に引火させるという「複合渦流調整燃焼方式(Compound Vortex Controlled Combustion)」であり、実用化にこぎつけたのだった。
そのことを知った有吉は、何のつてもないまま自ら本田技研本社に電話でアポを取り、本田宗一郎との面会に取りつけた。
社長室で初対面の本田に会った有吉は、著書「複合汚染」の中でこう記している。

月並みの挨拶の後で、私はいきなり質問に移った。
「お宅の無公害エンジンのことで、教えて頂きたいのですけれど」
本田さんはびっくりして両手をあげた。
「む、無公害エンジンなどというものは、わが社は開発しとりません。無公害エンジンというのは、確かに理想ではありますが、まだ世界でどこも開発していないんです。わが社が開発したのは低公害エンジンです」
私は学者や科学者が、言葉の正確さを尊重する態度を、いつも好ましいものに思っている。初対面の本田宗一郎氏が、CVCCは無公害ではない、低公害エンジンだと言われていたので、私はすっかり嬉しくなり、安心していいという確信を持った。


技術担当者にCVCCエンジンの説明をさせようとした本田の提案を、「私は素人ですから専門家は結構です。」と有吉はやんわり断り、代わりに椅子から絨毯に胡坐をかき、ワイシャツの袖をまくり上げながら自らCVCCの断面図を指し示して説明する本田だが、有吉は生返事を繰り返すばかりで本田の説明を理解することができない。
有吉が「今まで排気ガスとして外へ捨てていた中にまだ燃やせる部分があったのを、燃焼室で完全に燃焼させているのがCVCCの特性」だと理解したことを知ると、本田は「そうです、そうです。」と言い、ハンカチを取り出して額の汗をぬぐったのだという。
あまりに破天荒な作家が認める、愚直なまでに技術にこだわる自動車メーカー社長が昔は確かにいた・・・今、自社製品の技術をレジュメなしに人前で諳んじられるメーカー社長が自動車業界にどれだけいることだろうか。

本田宗一郎の死後、F1でのコンストラクターズチャンピオン獲得や過給器を必要としないで四輪で初めてリッター100馬力を叩き出すV-TECの量産など、エンジン開発で名を上げていくホンダの次の目標は電動アシストのモーター付ガソリンエンジンの開発であった。当時の本田技研工業社長・川本信彦の肝入りで開発に邁進していたが、本田宗一郎がこの世を去ったのを境にホンダのネームバリューが徐々に低下していく。
1997年にトヨタが初のハイブリット量産車「プリウス」を発売したことが、「エンジン開発の雄」であったホンダの王座転落を決定付けることになった。ホンダHP内の「小説本田技研」に技術者の落胆ぶりが描かれている。

1997年3月の薄寒い朝に、山本は先輩からの電話で叩き起こされる。「おい、新聞を見たか」山本は、眠い目をこすりながら、朝刊を開く。「ええーっ」
<トヨタ、ハイブリッド技術を発表。世界初の量産化へ>
パシッ。山本はおもわず新聞をテーブルに叩きつけた。

その日、藤村と山本のまわりは、プリウスの話題で持ちきりだった。「まさか、トヨタがこれほど進んでいるとは・・・寝耳に水だな」

(中略)

プリウスは、日本で先行発売した。ならば、ホンダは米国と欧州でトヨタの先手を打とう。一刻も早い米国発売にむけて、懸命の開発作業が続いた。


ホンダは1999年にインサイトを北米市場に投入、プリウスの北米進出は2000年と出遅れた形になったが、2009年1月時点の全世界累計販売台数はプリウス120万台以上に対して、インサイトは1万7020台、シビック・アコードのハイブリット仕様を合わせても30万740台と惨敗を期している。
この度、ホンダは低価格を前面に掲げてハイブリット市場の奪取を狙ってきた。トヨタも現行型と次期のプリウスを並行販売、低価格と新技術で対抗するという。ホンダがクリーン技術での主導権を奪い返すとの信念を持ったことで(些か遅きに過ぎるが・・・)、内燃機関からの脱却と次世代エンジンの技術向上が加速するはずだ。ホンダに限らず、技術者の情熱が伝わるクルマが数多く登場することを強く願う。


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